この言葉は 「論語」の中で、孔子が自らの人生を振り返った人生観ともいえる一説
「吾、十五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従えども、のりをこえず。」
それは、一種、神童、天才と言われた人物が語った言葉であり我々凡人がその人生において模範、人生の規範として受け入れている言葉に過ぎないことを昨今多々考えてしまう。
40にもなって何、惑わってんの?
多目的トイレでいたしちゃうほどの性欲でことが済めば1万円渡して強制退去させる47歳の人とか、
何が気に入らないのかモデルガンをちらつかせてずっと若い人の車を煽っちゃったり、これも確か40代、(48歳でした)
それどころか散々煽った上で前を塞ぎ強制的に止めた他車の運転手(これも若い)を殴る、その状況を同乗の女に撮影させてなにかのヒーローにでもなったつもりの44歳?
他の世代だって偉そうなこといえんけど、ちょっと多いかなって程度の話なのですが・・・
あれはね、恥ずかしいを通り越してなにか知能に問題があるのかな?などと考えてしまうのだよ。
せっかく孔子さんが「惑わず」って教えてくれているのに惑乱してどうすんのさ!
カッーっと頭に血が登っちゃうその性質? どうにかしないといい歳と言ってもいいですよね40代?
私の甥っ子の世代で、団塊の世代の息子たち世代なんだよね。
なにか因果関係があるのだろうか?って・・・
もしかしたら、いまの各世代のなかで良いも悪いも含めて、もっとも活発な世代?なのかな?
今度は「良い」ほうの事例をみたいものなのだけれど入ってくるのはそんな話題ばかりなもので、それも筆者アンテナの伸ばし方がひねくれているからかもね。
思うに、我々一般凡人は孔子が教えてくれている年齢に10年か20年を足して考えたほう良いのかも・・・と思うようになりましてね。
と思ったんです。
どちらにしても四十という年代のころには人生の岐路のような出来事が起こるもので男の場合42歳が本厄ではないですか。
筆者Mr_Moai自身も40代で奥さん亡くしたし色々岐路にも立ちましたよ。
自身も命の瀬戸際まで体験しましたしね。いろいろあるんでしょうね、そういえば妻の発症は夫42歳のときでした。
そんなこんなで40代というのは、なにかこう人生のなかで何らかの大衝撃的なことがおきて、あとで思い返してみれば、人生激変ってことが多いのかもしれませんな。それも自力だけではなく他力でも、ですね。
言い方を変えると「四十にして周りが一変してしまうような状況の変化で立たざるを得なかった」なのかもと考えてみました。
それとも20代、30代をのほほんと過ごしてしまって何も変わらなかった、変える必要もなかった、感じなかった人の末路なのかもしれない。だから他者の力を借りて、逮捕なり拘束されて初めて気がつくことなのかも、、、無理やりでも立たされる(正される?) でも、それってやっぱ恥ずかしいベヨ~
いまだ40歳代のかたは気をつけられよ。
50歳以降はまた書きますけど
まだ天命は来ないかもしれないし、すでに来ている人は、それはそれで良いのです。
ではまた